昭和40年06月21日 朝の御理解
(途中から)
お礼に出て参りました。昨日あのう、福岡県の高校の柔道の選手権大会かなんかがあったんですね。選手権なんて言うですか、この全国のあれが八月にあるそうですが、それをあのう、選抜のための試合なんですね。一昨日、健さんのほうが南筑の方へまあ柔道部で、まあ活躍しておる訳です。三年生でしょうか。今。で昨日選手で出るわけなんです。それで私は取次をさして頂いて、大体試合といったようなものは、まあ兎に角まあ積極的に出るということなんですけれども。
昨日、あのお届け頂きます事は、まあ受身で消極的にという意味だったんですね、頂きます事は。まあ、勿論、南筑高校柔道部の、ために、まあ願われたわけなんですね。確かに願いはそれで良かったんです。そうですね、もう自分だけのためじゃない。高校全体のためを願うんだ。それは皆さんが自分の一家といったようなことではなくて、この椛目のお広前の、ご造営といったようなことを、願われるのと同じなんです。
ところが夕べ、夜遅う、お礼に出てまいりましてから、私あの古賀先生から、あの「南筑が優勝しましたそうですよ」ちゅうてから聞いておりましたから、心待ちしたんです。どうして、何時まっでん、お礼に出てこんじゃろかと思た。そしたら遅うに出てまいりましてから、まあ、その、お礼お届けがあったんですけれども、あのう、健次はあのうなんか出たんですけども調子が悪くて交代した。交代になった。
ほんでその、まあ自分が試合に出て自分が勝たなかったもんですから、なんかスッキリしないものがあるんですね。皆さんどうでしょうか。これは、もう人間誰しもある事じゃないだろうかと思うんですけれども、そのう、信心とは、ここをおかげ頂いていく事ですね。例えば教組の神様がもう「この方は人が助かることさえ出来ればよい」と仰る。あたしが認められなくても、ね。
私がその「あなたのおかげで。」と人から言われなくても、良いと言う事、まあ健次でも、信次さんでもまあそういう所がこう、スッキリしない様な感じでした。まぁそのうお礼に出て来ておるけれども、その健次がその交代になったという事が、何かそこにスッキリしないらしいんですよね。これは例えば皆さんの事にしてすり替えてみて、例えばんなら椛目で今度のご造営の事に、何何という役をしておるからどうの、ね、
何をそれこそ例えていうならば、椛目では何の、そのいわば、実行委員いう、あれだけでです、別に、長と名の付くような役も何もしないけれども、誰も知らん中で、いうなら、縁の下の力持ちのようにして、おかげを頂き続けておる人達がいくらも居る事です。問題はご造営が出来さえ、成就になりさえすれば良いという願いなんです。あん時の自分は委員長だった。あん時の自分達は総代じゃったと言った様なですね。
表面に例えば出らなければ、頑張られないなんていう事は可笑しいですね。可笑しいっていう信心誰しもある事なんですけれども、持ってるんですそういう汚い物を。ですから口では「もう私達はもうどげんでもよか」と「問題はこの事が成就さえすればよい」そんなら信次さんだって健次さんだってそうじゃなかったでしょうかね。折角そのだからもう南筑高校が優勝さえすればよいという気持ちだったろうけれども。
実際優勝したところが、その選手に出ておりながら、それがそのう、本当の活躍が出来なかったということが、そりゃその私はスッキリしませんなんて事は言いはしません。けれども、何とはなしにお取次ぎをさせて頂きながらです、その事が何かこう引っ掛かっておる感じなんですよね。それは、まあ無理もないことだと私は思いました。私共はね、そういうような私共の心の中に、表面には確かにそう思っておる。ね。
南筑が南筑が勝ちさえすればいいとこう思う。ね。例えばなら皆さんでもそうでしょうが。御造営が成就になりさえすりゃいい、私達が別にその表面に顔が出なくてもあれが、その誰が「あなたのおかげ」と言うてもらわんでもいいとこう確かにその思うてるです。それは美しい心なんですけれども、その美しい心と思うておるその心をようく詮索してみますとですたい、ね。
「自分なら、別に役しておるわけじゃなかろうもん。じゃけん」ちゅうごたるようなものがです、何かスッキリしないものがあると。そのスッキリしないものがです、そのそういう心に、お互い取り組まして頂くということが、真実、人間の幸せにならして頂けれる、元になるのじゃないだろうかと私は、思うんです。ね。昨日、秋永先生が、福岡の春吉の教会の先生に。
昨日一昨日でしたか、お話をしたと言う様に、椛目に御造営が出来る、しかも四千二百何ぼも掛るという話を聞かれてそらもうびっくり、そら仰天されるでしょうねやっぱり。一桁、間違とらんのちゅうごとあるですよ、やはり。ね。そりゃほんとですよ、例えば、一桁間違うとると、四百何十万ですよと。本当いうたら椛目では大変な事なんですけれども、その十倍ものことが成されようとしておるのですからね。
「大体その椛目っていう所はどういう信心しよってっですか」ち言うわけですね。私はよく知ってるんです、岡部って言う先生です。「大体、大坪さんのはどげなことをその皆に教えよるか」ち言う。椛目の場合、有り難い事なんですけれども、これは事実そうなんですもんね。もう本当にもう殆どが家族を上げての信心であるということです。椛目の、信心は、信者は、段々。そこに強い物があるんですね。
と同時にです、「んなら何かその教えの、スローガンと言った様な物があるですか。何をそのどこを目指して、皆が信心しておるんですか。」という様なことをたずねられた時に、「さあ、あんまりおかげ頂く、あれもこれもあって、ひとつは椛目のですね、生き方っていうものがあるもんですから、どこを説明していいもなかったから、とにかく椛目はですね、もう限りなく美しゅうなろうよって言うのが、信者の合言葉のようになっております。」ち言うた。
ばってん、それじゃ分からなかったんです。それでその限りなく美しゅうならして頂こうという内容をです。もう本気で改まる事だと、本気で磨く事にしてなる事だと、ね。汚れを落として、そして磨いて行くんですから、美しゅうならんはずがなか。そしたら「はあそうですか」ちゅうてから感心さらたと言う事なんですけれども、ね。限りなく美しゅうならせて頂こうと、焦点を置いたら、只今申しますような。
そういう心がお互いの心にあるのを突き止めてですたい、ほんとに南筑高校が勝ちさえすればよいというて、お願いしたのにも関わらず、もちろん自分選手に出ておるから、それを思うた。ね。校全体のいわば優勝である、優勝になればよいと思ておったけれども、肝心、自分の試合の時には調子が出らなかったということがです。何とはなしに優勝はしたけれども、何とはなしにスッキリしない物がある。
椛目の事だって同じ事、ね、御造営は出来たけれども、何とはなしにスッキリしない物が後に残るようなことでは、私は、ね。それが幸せの元にはならないということ。どんなに縁の下の力持ちであってもです、ね、ほんとにあの時に力を受けた。あの時に徳を受けた。あの時に自分の素直心に取り組ませて頂いて、あれを取り除かして頂いた、というようなことになって来なければです、ならないのですよね。
その事私夕べ菊栄会の連中、共励終わってから下へ降りてまいりましてから、そのことを、もうこういう所に本気であんた達取り組んでもらわんならんよ、と言うてまあ話た事でございます。ね。御ひれいの立つ教会ではです、必ず御信者さんがですね、「もう親先生のおかげで」と必ず言うです。ね。今は知りませんでけれども、あの甘木のまあ親先生がおられて隆々たる御ひれいのあった時分の御信者さん方の、もう口を開けられたら「もう親先生のおかげで」と皆さんが言うておられたですね確か。
ところが御ひれいが立たない教会これはですね「もう神様のおかげで」ち言う。その神様のおかげでと言うような教会が先生がですね「私がもうあなたのために、とても、ああた水かぶってから、お願いしてやったはずばの。私がお取次ぎしてやったぞ。私があんた、あげん時にはこげな修行ばしたばの」と言うて、その自分を売ろうとされる。ね。先生を売ろうとされるんです。先生を認めさせようとなさるんです。
ところが信者はいっちょん先生のおかげでとは言わんです。「ほんと神様のおかげで」としか言わん。例えば、甘木の先生やったらどうだったであろうかと。安武松次郎なんかて問題にしておられなかった。ほんとに神様のおかげで、これは私の場合でも同じ事です。もう私は、むしろ皆さんの、例えばお取次ぎをさして頂くでもです、もう神様おかげを下されるんだけれども、こちらが邪魔になってはならん。
善導大橋じゃないですけれども、この大橋がですね、私の信心のため汚れております。壊れております。どうぞその橋で汚れ、お互いが汚しませんように、壊れてる所が、から落ち込む事がようなことがありませんように、ただ私が邪魔にならんように、私が邪魔にならんようにと、私を空しゅうさして頂いての、お取次ぎなからなければならないと、私は思うとります。
そこが私がいつも申しますように、もう私ほんと別に教師の資格も要らん看板も要らんと。問題は人が助かってさえ行きゃよいのだから、その教組の神様のご精神を持って私はおかげを頂いておるというようなこと申しますのもその事。そこで段々椛目でおかげを頂いてですね、神様のおかげでと言う人がもう本当にやっぱり親先生のおかげでと言うて、私のぐらいな者でも、んならそういう大体言うて下さるでしょうが。
「本当にもう親先生が無からなら現在の私の家はどげんなっとるっちゃ分かりません」ち言うふうな表現なさる方達が、段々多くなって来たということ。それは私はそこに取り組んでおるかじゃないかとこう思うんです。でないとですね。ほんとのおかげにならんです。信心しておっても。ね。私達がこういうおかげを頂いたから、と言った様な事ではね、成就のあかつきにスッキリしない物が生まれて来やしないかな。
また、それではほんとの意味合いにおいて、御用には使うて下さらんと思うです。ね。問題はこの事がです、ね、御成就になりますように。昨日、推進委員の方達、推進委員ですかね、奉修委員の方達のですね、御祈念会がございました。その時にあの長女が一緒に御祈念さしてもらいよりまして、頂いておるのがですね「女」という字をこんなふうにずうっと繋いでおる所の、御心眼を頂いたと申しておりました。
書いてみてから繋がるんですけれどもね、やっぱ文化辞書がなければ出来ないわけですよこれは、「女」という字をこんなふうに繋がってですね。もうそれこそ長い長い綱のようにあるところを頂いた。それこそ「女の一念岩をも通す」と言うがですね。そういう例えば念力を持った方達、一念を持ってです、この行、成就のために、いわば総御祈念をしておられる姿であろうと私は思いました。
これは男女を問わず、本当にこういう繋がりになっていかなければならないと思うですね。鎖のように。あれはちょういんのあの棟が、棟が上がる時にどうしても上がらなかった時にね、全国のその信奉者の婦人の方達が緑の黒髪を切って、それで縄をなうて、その上げられたというそのう、お話が残っておりますような意味の事だと私は思うんですね。御造営の時には椛目の信者一同がです、打って一丸になって。
もうそれこそ役があろうがなかろうが、ただその事に焦点を置いて、念じ抜いたといったようなこと、こうあれということだったろうとこう私は思いましたんですけれどもね。昨日、私は、ほんとに、ほんとにおかげ頂かなきゃいけんですなあ。信心さして頂かなきゃいかんですね。しかも本当の信心をさしてもらわなければ、人間の幸せがあるはずはないですなという様な、お取次ぎをいくらもさして頂いたんですけれども。
ある方が、お参りして見えましてからですね。主人のためにも従兄弟にあたる、私のためにも従兄弟になるという、もう八十からなられる方なんだそうですよね。先日亡くなられてから、お葬式に行かれた。それはもう大変な繁盛した家なんだそうです。ところが三回も火事に遭われたんですね。それでもう晩年の頃は、もうそれこそ惨めな生活しておられた。まあ、お葬式に行ってから、本当にもう一時はですね。
大変なもうそれこそ豪壮な、家、あのう別荘を建てられましてですね。もうそれこそ安気安穏でいよいよ一生を終わられるに違いないというようなおかげも頂かれたんだそうですけれどもです。いよいよ、お婆さんが七十いくつ、その従兄弟になられる方が、八十歳あまりで亡くなられたんです、そうですけれども、もう実に気の毒なそのう状態だったと、こう言われるです。
してみるとほんとに一生過ごしてみなきゃ分かりませんなあ。ね。けれど信心さして頂いておる事がですたいね。ほんとに、もう必ずおかげが頂けれるという、それが、いよいよおかげになってです、段々有り難い事になって行く事を、確信しながら生活さしてもらえる。また同時にそういうおかげを受けらるという道に、縁を頂いておるということが有り難いと言うて、二人で話したことでございました。
一人は是ももうそれこそ、もう県下でも有名な、大きな仕事をなさっておられるお家なんです。息子さんが六人、あ五人かおられるそうです。所がそのご長男の嫁さんていうのがですね、何とか校正会、丁度やっぱあのう創価学会のような日蓮宗らしいですね。その○○支部に、そのお参りをしなさったんですね。まず頭が痛かりゃ仏さんの障り、手が痛かりゃ、その何何の霊の障りと言った様な、まあ信心らしいんですよ。
その寺にですね、そのお年寄り夫婦達が、もうありどんがあげな信心するとなら、もう別れると今言いよりなさるそうです。別荘建ててから別れるち言う。それけんで別荘建てて別れたからというてですよ、幸せになれることはない。ところが今度は、そのもう親との縁が、そして、親と別れるならですね、今度は他の兄弟達が財産分けしなければ出来んち、まあ言いよるそうです。
やっぱり、あのうそのう、親戚の方ですから、その事のために昨日、かかられて、夕べ参って見えたんですよね。もう先生そして、そればあなたもう、中に兄弟に利口な奴がおってですね、まあ親父の機嫌を取ってから、もうガバッと自分が一人で取ろうとする奴がおるかと思うとですたい、ね、もうそりゃ本当に何のためにその年寄り夫婦はですたいね。その親父になりますもん、家内の親になりますから。
もう何のために親父達はあれだけの財産を残したじゃろうかと言うて、思います。その中に入ってから、と言うてこうやって、そのお届けしております。それも夕べ私御祈念の時にお届けさして頂いたんですけれども、親方が気に入らずに、弟にかかっちゃった。財産家なんです。これは信心がありません。ね。ところがその弟が嫁ごもろたところが、嫁ごが気に入らんでから、とうとう家別れしてしまった。そしてその出しとったその親方を呼び寄せたところが、どっこい具合ようまたいかん。
先日から大変高血圧が高くてから、そのおじいさん、そのう倒れなさった。もうあん奴どん、あげなことして使う事あるならば、俺も使わな馬鹿らしかち言うてから、その原鶴に入り浸りにして、入り浸っておる。ね。息子は息子で、例えば自動車をお百姓さんですけれども、二台もこう自家用車、あ、わざわざその遠方まで行って買うて来ると言ったようなやっぱ事やってるんですね。
ほっで、その嫁さんが、その従兄弟にあたる方が来てから言うんですよ。「もうほんとに○○さんは財産はなぁんも要らん」て、ね、「もし私と里が近いのなら、私はどうでもいつの昔出て行っておるじゃろう」ちゅうてから、その泣きの涙で、何時も話されるそうです。ね。その食べよりなさった時なんかで、さあおじいちゃんち言うてから、そのそしたら、あぁその、もう身体は死んでしもてから、ききよりなさらんごつしてから、口だけは達者げなもん。
最近その「あんた達からしてもらうこついらん」ち言うてから、まあ、おじさんが言われるちわけですね。それでその、このお婆さんという人にそのう、その人がですたいね、おばさんに当たりますから、信心を勧められるとですね。どういうことになれるかと言うとですね。「それではなかったっちゃ、こげな苦労しよるとに信心したならですたい。まんまんシャンのごつなってしもたら、あんた、余計、あれどんが馬鹿にしようもん」ち言わっしゃった。
もう兎に角その救いの綱に掛けられて、御縁を頂いておるという事は素晴らしい事ですね。そういう難儀の中にあるから、信心しなさいと言うて言うたげならですね。それでなかったちゃあれどみゃこげん馬鹿にしてからですたいね。馬鹿にしてって言うがこういう難儀の中にです「信心すんなら余計難儀になろう」と言わっしゃった「信心さして頂いて、まんまんしゃんの事なったなら余計馬鹿にしようもん」ち言わっしゃった。
もうどうこう言い様が御座いませんでしたち言うとりますもん。ね。したらその三つ私、昨日、三つそういうのをお取次ぎさして頂いてからです。ね。結局何のために一生働かしてもらった、何のために我を張ってから、この財産を残したかということ。三つとも、大変な財産家なんですねいうならば。ね。信心を頂かせてもろうて、しかも信心も真の信心をさしてもろうてということはです。
今日あたくし共が、私が今申しております所のです。汚い汚い我を取らなきゃいけないという事ですよ。ね。でなかったら信心があっても同じ事という事です。信者さん達兄弟の、それではないですけれども、ね、そういう時にはあせっほんとに南筑高校の優勝を願わして頂いての、おかげを頂いてからのおかげお願い通りにです、優勝のおかげを頂いたんだから、本当に有り難うならなければならないのにも関わらずです。
何とはなしに自分がその、その試合に優勝しなかったという事はです。自分が勝たなかったという事がです、何とはなしに引っ掛かっておる。それはどういう心がそういう事になっておるのかと、椛目の御造営の事に言うてもこれと同じ事だと。ね。御造営御造営と。ね。けれども、自分達は別に楽をしとるわけじゃなし、例え楽をしておってもです、あたし達がというような我があったり。
そういう、汚い心が心の中にあったんではですいけん。問題は勝ちさえすればお願いしておった、勝ちさえすればよいという事。優勝さえすればよいという願い。御造営が成就さえすればよいという願い。私共です今ならばです、人が助かる事さえ出来ればよいという願い。私というもの何時も空しゅうしとかなければいけない。いやむしろ私の様な汚い者がです。かえって御造営の為にお邪魔になっておるんじゃなかろうか。
私共の心には、そげなお邪魔になるような心があるのだと。して言うと、そういう心に取り組んでです、お互いが限りなく美しゅうなろうやという所に、焦点を置いてです。信心を進めて行かなければならんという事を感じます。そう言う様ないわば純粋な心、そういうような純粋な心を持って頂くところの財産、家庭であったとしたら、私はほんとの幸せが得られるのじゃないかと、こう思うのですね。
お互いの心を検討してご覧なさい。あたくし自身がそれは思うのですから、お取次ぎさせて頂いてから、ね、私の様な汚い者がです、ね、お取次ぎさせて頂くので御座いますから、ね、そこのいわば、お取次ぎの橋が汚れておったり、壊れておったりしますから、それによって汚すような事は御座いません様に、それによって汚す様な事が御座いません様に。私の心が真っ暗でございますゆえにです。ね。
銘々が、信心の光を持って、この橋を渡って下さり、下さります様にと、言うぐらいのものがです、段々出来てまいります。そこに私は例えていうならば、「親先生のおかげで」と言う様な人達が、だんだん出来る様な、おかげになって来るんじゃないだろうかと。「私があんた日夜これだけの苦労をしよるけん、あんたどんが助かっとるばい。」と言う様なお広前ではです。決して先生のおかげでと言う信者がおらない。ほんとに神様のおかげでと。自分を空しゅうして、ね。
自分というものをなくして、人が助かる事さえ出来ればそれで問題は、それでよろしいのだ。自分が成らずるまいが資格をもらうまいが、そんなことは問題じゃないてな先生の所ではです。もう必ず信者さん方が、親先生のおかげでと言う様になってくるんです。そこに本当のお道の信心のあり方というものも感じますけれどもね。そういう我とかそういう汚い心に取り組んでの、一つ信心であり、精進でなからなければならん。
同時に御造営成就ということもです、そういう意味合いにおいての成就にならして頂く時に、それに焦点を置き、そこに精進さして頂く者の上に、私は力を下さるだろう、おかげもまた頂けるだろうと、こう思うのです。ね。そういう汚い物があっても、あってはです、いわば御用にですら、使て下さらんのじゃないだろうかというふうに思うですね。
おかげを頂きました。